なべて余はこともなし

昨夜、私は4キロ半のマシュマロを食べる夢を見たのだが、目を覚ましたら、枕がなかった。(トミー・クーパー)

【映画評】世界のクロサワ映画を無理して生きる

小林多喜二の「蟹工船」が再び脚光を集めている時代だから驚くには当たらないのかもしれない。NHK・BSで放送された没後10年黒澤明特集の「あなたが選んだ黒澤アンコール」(2009年初旬)で、「赤ひげ」が2位に選ばれた。監督自身、当時の集大成だったという作品でもある。2位から5位までは僅差だが、視聴者の見識は高いと云うべきか。

1位 七人の侍
2位 赤ひげ
3位 用心棒
4位 生きる
5位 天国と地獄

思いのほか「デルス・ウザーラ」(9位)が人気を集めた一方で、「酔いどれ天使」(14位)や「素晴らしき日曜日」(25位)の票が少なかった。

赤ひげ(1965年・東宝

監督:黒澤明  
原作:山本周五郎
出演:三船敏郎加山雄三二木てるみ頭師佳孝、内藤洋子、土屋嘉男、団令子、香川京子、根岸明美、山崎努桑野みゆき杉村春子

江戸末期、長崎で蘭方医学を修めた青年医師(加山)が、本人の希望に反して江戸の小石川養生所に配属される。出世の道を閉ざされた不満から、彼は赤ひげと呼ばれる傲慢な所長(三船)に反抗する。

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昔のように低予算で小品を撮ってみてはどうか。撮影現場を訪れたある評論家にそう云われた監督は血相を変えた。「赤ひげ」など、「ベン・ハー」のワンカットにも及ばない!以後、世界のクロサワは思うように映画を撮れなくなる。そんな裏話を思い出しながら、久しぶりに見た。

香川京子扮する色情狂の女に青年が襲われる場面には息を呑んだ。それでも、3時間の長尺には倦んでしまった。

全編がエピソード構成の市井人情ものである。胸の内を明かさなかった老人の厳粛な臨終、腕ずくの手術、猥雑な長屋の面々、車大工(山崎)の悲恋・・・。青年はそんな庶民の窮状を目の当たりにする。赤ひげが貧しい人々のために献身する姿にも共感する。政治は貧困や無知に対して何もしない。医は仁術でなければならない。医を算術だと履き違えていた青年は目を開く。

赤ひげの人物像が勘所だ。無骨ながら心根は優しい。刀こそ帯びていないが、喧嘩も滅法強い。弱味を握った役人を利用することも辞さない。だが「俺は悪人だ」。自らを悪人と称するのはどんな人種なのか。身元不明の英雄が自分の姿に充足する。そんな気配が鼻につかないか。無論、門構えと二人の上半身を仰角気味に捉えた構図は随所に決まる。

政治の責任を問いながら、映画はどこか白々しい。監督の善意は疑わないが、直情的なヒューマニズムと理想主義が幅を利かす。こんな超人がいたら政治は要らない。倫理を説きながら映画の射程は現実に届かない。娯楽映画に望蜀の言というものか(※)。

岡場所から救い出した少女(二木)と「子ねずみ」の交流を描いた後半はいい。ただ、娼家での虐待によって極度の人間不信に陥っていた少女がかくもあっさりと回復してしまったのには驚いた。監督の楽天的な人間観が図らずも露呈された場面だろうか。こちらの記憶違いではあった。

盗みの現場を見逃してくれた少女に、子ねずみが別れを告げに来る。父ちゃんがひもじい思いをしないで済むところに連れて行ってくれるんだ。今夜の姉ちゃんはとても綺麗だ。さようなら。不安を覚えて引き止めようとする少女を少年は制する。「どですかでん」の頭師佳孝の一世一代の名演技。果たして、子ねずみ一家は心中を図った。瀕死の状態で担ぎ込まれる。子ねずみはすべてを承知していた。彼もまた黒澤映画の住人たるに相応しいサムライなのだった!井戸とは幽明の境なのか、少女が魂を呼び戻そうとありったけの思いで叫ぶ場面には泣けた。

これが黒澤映画の理想郷なのだから、志村喬の鬼気迫る腑抜けの表情にも惑わされてはいけない。傑作の誉れ高い「生きる」もまたサムライの映画だ。文字通り、滅私奉公によって死の恐怖を克服する男の物語なのだから。

生きる(1952年・東宝

監督:黒澤明  
出演:志村喬、小田切みき、伊藤雄之助金子信雄、日守新一、小堀誠

この男は死人も同然だった・・・。神の声のようなナレーションがいきなりそう紹介する主人公は市役所の課長だ。30年間無欠勤、毎日、机上に置かれる書類に判を押すだけという単調な仕事を続けてきた。そんな初老の男が突然、癌で余命わずかと宣告される。呆然自失。藁にもすがる思いで二階の息子夫婦を頼る。妻を失った後に男手一つで育ててきた息子(金子)だ。だが、返ってきたのは、もはや戸籍という書類上の息子にすぎない肉親の冷たい言葉だった。

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当然ながら、小津安二郎監督「東京物語」(53年)を思い出す。家庭劇しか撮らなかった小津監督はなぜか、ほとんど家の中の階段を画面に収めなかった。蓮見重彦は小津映画の二階は宙に浮いていると指摘した。だが、劇的な効果を重んじる黒澤監督がこの舞台装置を見逃さないはずがない。それは小津監督「風の中の牝鶏」という例外よりも衝撃的だったかもしれない。絶望に打ちひしがれて階段を下りる主人公の後姿は、家族との訣別を劇的に物語る。

男の遍歴が始まる。メフィストフェレスを任じる小説家(伊藤!)に導かれて夜の街に繰り出し、パチンコをする、酒を飲む、女の裸を見る。安心立命は得られない。だが、救い主は意外なところから現れる。市役所を辞めて玩具工場で働き始めた若い娘だ。監督好みの顔と思しい小田切みきが演じる(「一番美しく」の黒澤夫人、矢口陽子に似ている)。決して美形ではないが、生きいきとした無邪気な笑顔と大きな目が印象的だ。彼女が語る、物を作る喜びに霊感を受ける。死んでいた男が生き返る。もちろんそのレストランでは、誕生日パーティで盛り上がっている若者たちの歌声が大きく響くだろう。

改めて云うまでもないが、「生きる」が凡百の映画と一線を画すのはここからだ。場面が一気に飛躍して、主人公の通夜の席に移る。酒に酔った役所の部下たちの回想という形になる。この構成の転調は鮮やかだが、情熱の尊さは直截には描きにくい。虚構の世界では、純度の高い熱意は挫折からしか取り出せない。主人公の情熱は実を結んだ。だが、やったことは各方面に粘り強く頭を下げたことだけだろう。絵にはならない。

破格の展開と評されたこの方便がうまくいっているとは思えない。情熱の力を顕揚するはずが、つまらない官僚批判が目立ってしまった。「あんな立場に置かれれば我々だって公園ぐらい作れる」と大口を叩き始めた連中を左朴全が一蹴する。「お前たちのようなクズにできるか!」。黒澤映画の常連の役回りとはいえ、場面をさらって意図せざる喜劇にしてしまった。後年、監督がこの映画に触れたがらなかったというのもこの故だったのではなかろうか。

いのち短し、恋せよ少女・・・光の粒のような雪が降る公園で、主人公がブランコを揺らしながら「ゴンドラの唄」を歌う。ストーブの匂いがする映画館でこの場面を見て泣いたのが作曲者の中山晋平だった。そして28日後に亡くなった。そんな話を朝日新聞「うたの旅人」で読んだ。この唄は彼が薄幸の母の人生を重ねて作ったものではないかという。だが気になるのは、やはり黒澤監督も尊敬していたというあの監督の評価だ。果たして小津監督は「生きる」をどう見たのだろうか。

※ 黒澤監督は百も承知なのだ。「悪い奴ほどよく眠る」を見ればよく分かる。死に花を咲かせない復讐劇。映画もそんな誠実な尻すぼまりによって捨てがたい。それでも、本人は身も蓋もない「生きものの記録」のほうが自分らしい映画だと云う。困った。ならば、私が選んだ黒澤アンコールもやっておこう。順不同で「羅生門」「野良犬」「天国と地獄」「一番美しく」、そして「悪い奴ほどよく眠る」、あるいは「どん底」。「七人の侍」は「赤ひげ」「生きる」にもまして気に入らない。私はクロサワ映画が好きなのか、嫌いなのか。