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なべて余はこともなし

昨夜、私は4キロ半のマシュマロを食べる夢を見たのだが、目を覚ましたら、枕がなかった。(トミー・クーパー)

コロちゃんのスワンソング

もうだいぶ前の話だが、猫の最期を見取ったことがある。

十年以上生きた猫だから、老衰だったのだろう。いま振り返ると、病気だったのかとも思わないでもないが、もはや確かめる術はない。

最後の三、四日だっただろうか、何も受けつけなかった。水を飲もうとも、餌を口にしようともしなかった。

飼い猫はそんなことはしない。だから、迷信だと言う人もいる。でも、うちのコロは、死に場所を求めて、ひたすら家を出ようとした。

赤ちゃんの頃はコロコロしていた猫だったのにガリガリ、骨と皮だけになってしまった。それでも、一体どこにそんな力が残っているのか、自力で窓を開けて外に出ようとした。元気な頃でも、その前でニャ~と鳴いて人に開けてくれとせがんだほどの重い窓だ。それを今は、実際に自分で開けてしまう。

こちらの呼びかけには、まったく反応しない。名前を呼んでも、目の前で手を振っても、それに応える動作はない。ひたすら死の一点だけを見据え、鳴いているかのようだった。

ただ、その目の色と声は恐ろしいまでに透き通った、美しいものだった。空ろにして、空ろではない。それまでに見たことも、聞いたこともないものだった。スワンソングとはこういう鳴き声を言うのか。人間の手を離れた純粋な自然、その透明感とでも言えばいいのか。

コロはまさしく、自然の本能だけに耳を傾ける存在になっていた。

家の中でよろよろと二、三歩歩いて、きれいな声で鳴いて、倒れる。呼吸は荒い。そしてまた起き上がって二歩、三歩。また倒れる。立ち上がる。外に出ようとする。

根負けした。こうなったら仕方ない。外で死なせてあげよう。

果たして、家の前の道路でもすぐにコトンと倒れる。とても人気のない静かなところまで行けそうになかった。車にひかれたり、近所の子供に捕まったりしたら、かえって厄介だろう。家に連れ帰った。ごめんよ、うちで最期を迎えてくれと。

そんな状態が、朝から夜まで続いた。そして、そのときが来た。

電気を消した風呂場の前のマットの上で、コロはもう起き上がることもできなくなっていた。身体をぶるぶると震わせては止まる、そんな痙攣を何度かして、静かに動かなくなった。

人間の世界で生きたひとつの小さないのちが、終わった。

テレビでは、関口宏が池田高校・蔦監督の生涯を紹介していた。蔦さんに罪はないが、人間なんかよりもはるかに立派な最期だと思った。泣いた。

翌朝、一晩安置したダンボール箱の中で、どこから湧いてきたのか、たくさんのノミが飛び跳ねていた。都会に暮らしていても、足元には豊かな自然の営みが広がっていた。

時にペットロスが話題になる。動物は死ぬから飼うのが嫌だ、と言う人も多い。

その気持ちは分かる。でも、間違っているのかもしれない。喪失の痛みを味わって初めて、存在の「かけがえのなさ」を知る。どんなものでも補填可能だと錯覚しがちな時代。死が、そして自然というものが身近になくなった時代。愚かな私たちにとって、それはとても貴重な体験なのかもしれない。

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