なべて余はこともなし

昨夜、私は4キロ半のマシュマロを食べる夢を見たのだが、目を覚ましたら、枕がなかった。(トミー・クーパー)

仁義なき戦い 歯医者死闘篇

■ 第一章 ■

とうとう、市販薬も効かなくなった。ゆっくりと寄せては返す波のようだった痛みが、今では間断なく襲ってくる。前日は七転八倒しながら仕事をした。もはや限界だ。カップ焼きソバを食べようとしても、口を開けただけで激痛が走る。このままでは、たった一度しかない人生に支障をきたす。

ただの気慰みでしかないものの右頬を冷やしながら、病院オタクの老父に問い合わせる。こういうときは身内の生の声こそ頼りになろう。「近所でいい歯医者と言えば?」「そうさな、吉野歯科(仮名)なら問題なかろう。あそこは早い、安い、うまい!」

何やら牛丼屋のキャッチコピーみだいだし、さすがに安いとは言わなかったと思うが、早くて腕が立つのなら申し分ない。ちゃちゃっと直してくれて、しかも完璧な出来ばえなら、こちらも金に糸目は付けない。もってけドロボー。何しろ、悪夢の空間に長居は無用だ。

長年、密かに恐れていた日がついに来てしまった。我、ついに歯医者に行かねばならぬ。

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そう、歯医者が大の苦手なのだ。小中学生の頃から行っていないので、当節はどんな治療方法をとるのかは知らないが、ドリルのキィ~ンと歯茎への麻酔注射が怖くてたまらないのだ。

確かに、大人げない。しかし、歯医者と大根だけはその存在自体が我慢ならない。だから、居酒屋でぶり大根を注文するときは、必ず大根抜きで頼む。大根はおでんの具としても人気が高いらしいが、全くもって信じられない。オレが作るおでんに、大根は入れない。歯医者も入れない。嫌なものは嫌だ。

約3、4年毎に襲ってくる痛みは気合いと酒麻酔で克服した。しかし、今回の痛みは半端じゃない。数年前、野球のボールをぶつけて股間が3倍になったという、あの古田監督の痛みにも引けを取らないのではないか。薬剤を綿球に染み込ませて虫歯の穴に押し込む、例の薬を使うと、痛みが治まるどころか、涙が出る、鼻汁が出る、あぶら汗がしたたり落ちる、口元が勝手に震え出す、叫びたくなる、手足をばたばたと動かさないではいられない。

もはや、大根の煮物と並ぶ我が天敵・歯医者の軍門に下らなければならない。人間は一人では生きられない。誰もが誰かに支えられて生きている。巷間よく耳にする、そんな陳腐な真理に我が身も無縁でいられなかった無力に打ちひしがれながら、チャリンコのペダルを踏みしめる。

大体、医療技術はじめ科学文明がこれほど発達した現代社会において、なぜ虫歯ごときを退治できないのか。人類は天然痘を根絶し、ペストやコレラも封じ込めたではないか。例えば、一週間に一度、歯に塗れば虫歯を予防できる薬ぐらい、容易に開発できそうなものではないか。

そんな至極まっとうな公憤を身内にたぎらせながら、チャリンコのペダルをまた踏みしめる。

まだ6月だと言うのに、30度近い暑さだ。額に流れる汗は気温によるものか、それとも恐怖の歯医者を前にしたあぶら汗か。このあたりは最近、全然来たことがなかったので道に迷った。買い物帰りと思しき平和そうな顔をしたおばさんに道を聞く。「さあ、知りません」。人の世は酷薄だ。そんな素気ない返事をいただいて右往左往した挙句、ようやく何の変哲もない民家の中に、目指す「吉野歯科(仮名)」の看板を発見した。

しかし、ひと気がない。ドアの向こうには白いカーテンが垂れ下がっている。休診日だった。クソ!親父に謀られた。「今日は休みじゃないか」と、電話を入れる。「ああ、診察券に休みって書いてあった」

目には目を、歯には歯を。親不孝者に対する父の、ここぞとばかりの陰険な仕打ちか。あるいは、緊急事態とはいえ、親子電話の子機と携帯電話の区別もつかない老父に頼ってしまった己の浅はかさを責めるべきか。しかし、今はそんなことを考えている場合ではない。歯がまたしてもズキズキと痛み出したのだ。初夏を思わせる光の中、脂汗を垂らしながら、急ぎ自宅へ戻らねばならない。

■ 第二章 ■

申し訳程度とはいえ若干痛みが和らぐので、約30秒毎にやや口を横に広げて奥歯ピンポイントに冷たい空気が当たるようスースー息を吸い込む。今オレにできる精一杯の抵抗を試みながら、自宅に戻る。サンダルを脱ぐ間も惜しんでパソコンのスイッチを入れる。肉親に裏切られた以上、もはや頼りになるのは世間の声だ。しかし、例によってなかなかパソコンが立ち上がらない。このときほどパソコンの起動の遅さを恨んだことはない。ようやくネットにつながる。グーグルに手を合わせる。口コミによる市内の歯医者のランキング・サイトがあった。グーグルはやはり神だ。

「早い、安い、うまい」の三拍子揃った歯医者を大至急、探さなければならない。

近所で良さそうなところは・・・ここは駅前だからダメだ、知った顔と出食わさないとも限らない、こんな醜態は晒したくない・・・ここだ!13位の藪田歯科(仮名)。81エントリー中で13番目だから優勝も狙える好位置をキープだ。HPがない店なので、早速、電話を入れる。まさかとは思うが、ここも休みという可能性はある。同じ失敗は二度と繰り返さない。激しい歯痛に苦しんでいても、冷静さを失わないのがオレのいいところだ。

休みだった。

平日だというのに、今日は日本中の歯医者が休みなのか。それとも、わざとか。世間はオレに恨みでもあるのか。しかし、世の中を呪っている暇はない。歯の痛みは刻一刻と激しくなるからだ。奥歯スースーも効かなくなった。藪田に対する「削るのも最小限」という評判に後ろ髪を引かれながら、画面をスクロールダウンして次を探す。

28位にその歯医者はあった。その名も田村歯科(仮名)。「とても温かい雰囲気のいい医院でした」「とてもアットホームな良い歯科医院の印象」・・・・・一般庶民がそんな声を寄せている。俄かには信じがたい。陰謀かもしれない。不安が頭をよぎる。温かい氷が存在しないのと同じ道理で、この世の中に温かい歯医者やアットホームな歯医者など存在しない。脳裏に映画「マラソンマン」のローレンス・オリヴィエ卿の姿が鮮明に甦る。見てはならないものを見てしまった過去を悔やむ。見てはいけないと言われたら見てはいけない。古今東西の神話はそう教える。

しかし、もはや限界だった。この歯痛が治まるのなら死んでもいい。そんな倒錯した精神状態にまで陥っていた。一般庶民の虚言をそのまま受け入れた。オレは無心でチャリンコにまたがった。坂の上まで無心にペダルを漕ぐ。そこから先は重力に身を委ねればいい。ブレーキに手を触れることもなく、大きな、大きな坂を下っていく。その坂の下の角に、蟻地獄が口を開いているかのように田村歯科があることを知りながら。人はこれを命知らずと呼ぶのかもしれない。

田村歯科。一見、普通の民間人が暮らす戸建て住宅を装ってはいる。頭のてっぺんにアンテナが生えている、かわいらしい宇宙人(?)キャラクターのシールが貼ってある玄関。しかし素人の目はくらませても、オレは騙されない。田村歯科は紛れもなく歯医者だ。有情の一切を寄せ付けない無機的な佇まい。ひんやりとした空気。それらがまざまざと語っている。ドアを開けた瞬間に、消毒液のそれなのか、あの歯医者独特の匂いが鼻腔を打つ。「初めてなんですけど」。受付の女に、オレは震える手で保険証を差し出す。そして、生まれてこのかた一度も笑顔を作ったことがないようなその年齢不詳の受付嬢は、あくまでも無表情のまま、オレの運命を左右することになる一枚の紙を寄こした。

■ 第三章 ■

こいつをどんな風に料理してやろうか。笑顔を忘れた受付嬢が渡したその紙は、恐らくは田村歯科が作戦を決定する際の参考資料となるアンケート用紙だった。「薬を飲んでアレルギー症状が出たことはあるか」「今までに大病を患ったことは。例えば、心臓病。高血圧。糖尿病。包茎等々」。オレは全てにチェックを入れたかった。薬を飲んでアレルギー? ハイ、出ます。もちろん心臓病だし、高血圧だし、糖尿だし・・・。そんな重病人を前にしたら、さすがの田村歯科も相手に不足を感じよう。悪魔といえども、まあ見逃してやろうかと憐憫の情が起こるのではないか。そうした甘い考えも心に兆した。

しかし、オレはアンケート用紙に正直に答えた。40を越えた身の上でありながら歯医者が怖い。そんな姿をお茶目だと評価してくれる人は存外少ないという非情な現実があるからだ。オレは腹を決めた。ここまで来たのだ。歯医者と戦おう。死んでもいいではないか。戦ったという事実が尊い。オレは相手が圧倒的に有利になることを承知の上で、包茎ですか?の質問に「ハイ、そうです」と答えた以外は全てノー・チェックで、そのアンケート用紙を受付嬢に返した。いや、もう一つ大事な項目があった。「痛い歯だけ治療するのか?それとも、この際だから全部治療するのか?」という人生の選択を迫る究極の問い。わずか一瞬の思案の末に、後者を選択した。悪夢との持久戦を覚悟した男の悲壮な心意気。我ながら泣けた。

待合室のソファに腰掛けて腹式で深呼吸をしたり、手の平に人の字を書いて飲み込んでいたりするうちに、例の音が聞こえてきた。身の毛もよだつ、歯を削るときのキィ~ンというドリルの音だ。嗚呼、やはり今も使っているのか。手洗いに行くふりをして、受付の奥にある診察室を覗く。無残にも、若い娘が眼鏡をかけた男の餌食になっていた。男の年は40前後か。歯医者として全盛期、脂の乗っている頃だろう。出来れば、オレの相手もあの男がいい。件のサイトによれば、ここは親子でやっている歯医者だ。眼鏡に子供がいても、まだ大学生ぐらいだろう。だとすれば、恐らく眼鏡の父親が現れる。すなわち爺さんだ。そのもうろく爺の震える手でドリルを握られたら・・・・・想像するだけで心拍数が上がった。

ついに来た。遺書をしたためる間もなく、オレの名前が呼ばれた。受付の横にあるドアを開ける。そこには昔と殆ど何も変わらない、有情の一切を受け付けない歯医者の診察室が広がっていた。オレは三台あるうちの一番手前の椅子に連行された。明らかに血の跡だと思われる染みの付いた前掛けを、やはり笑顔を知らない女衛生士がオレの首に回し付ける。そして、その男は「お待たせ」の声と共に現れた。年の頃は60ぐらいだろうか。予想とは違い、一見、田村高廣を連想させる、人の良さそうな初老の紳士だった。

だが、油断はできない。敵は歯医者なのだ。高廣翁がオレの目の前でライトをカッと照らす。「オレがやりました。大学生になっても親の財布から金をくすねたのはこのオレです!」と、思わず自白しそうになるのをぐっとこらえつつも、まな板の鯉であることに変わりはない。高廣翁が凶器を握って、オレの口に突っ込んだ。「痛むのはどの歯かな?」

「ふぁい ふぃふぃの うえの おふふぁ れふ」

はい、右の上の奥歯です! オレだって、普段はきちんとした日本語が喋れる。それなのに、何という理不尽な要求なのだ。口の中に二本も棒を突っ込まれて、ちゃんと喋れるわけがないではないか。これが歯医者だ。まずは40男の自尊心を易々と打ち砕き、屈辱を味わわせる。相手の戦意を喪失させる。しかし、歯医者の拷問に身を任せた以上、もはや後戻りはできない。これはまだ血も凍る悪夢のほんの序章だったのだ。

■ 第四章 ■

「ああ、これはひどいな」。赤い血の通った人間のふりをして、高廣翁が感嘆してみせる。「相当痛かっただろう。あなた、我慢強いねえ」

「ふぁい。ほへほ ひはふぁっふぁれふ」

確かに、その痛みたるや失神するのではないかと思えるほどのものだった。だが今にして思えば、そんな激痛に苦しみながらも、かすかに快感を覚えているもう一人の自分もいたような気がする。脂汗を流し、手足をばたばたさせながら、この出来事はブログのネタになるなと、ひそかに喜んでいるもう一人の自分。それともやはりマゾの素質があったのか。人の脳は苦痛を感じると、それを打ち消そうとするかのように、快感や意欲をつかさどるドーパミンだかコッペパンだかの脳内ホルモンが分泌されるのだと言う。そのせいだったのか。

高廣翁が歯医者としての本性を剥きだしにする瞬間が来た。「薬を入れるために、ちょっと削るからね」。えっ、こんなに大きな穴が開いているのに、何で削る必要があるんだよ!「ほふぉほ へふぅふれひふぁ」。伝達機能を奪われた言葉が、意味不明な音の連なりとなって空しく宙を舞う。しかし、すでに高廣翁は舌なめずりしながらドリルを握っている。悲しいかな、ひとたび武器を手にすると無闇に使いたがるというのが人間の性だ。例えば、床屋。あんまり短くしないでくださいと頼んでも、必ず短く刈る。決まって寺尾聡の髪型にされる。銃規制に反対する全米ライフル協会などは、そのへんの機微がとんと分かっていない。

キィ~ンという悪魔の音を立てて、高廣翁のドリルが唸り始めた。「痛かったら、言ってね」「ふぁい」「痛かったら、言ってね」「ふぁい」・・・やたら念を押す。正当防衛の予防線を張りつつも、存分に痛めつけてやろうという魂胆なのだろう。ああ、オレのなけなしの歯が削られていく・・・・・あれ、でも痛くない。全然痛くない。そう言えば、田村歯科に足を一歩踏み入れた瞬間から、右奥歯の激痛が消えていたことに気付く。なぜなのだろう。これが歯医者の恐るべき魔力なのか。

「では、口をゆすいで」。昔と変わらない、全自動うがいセットでガラガラペーをする。その後、シャーペンの芯先ほどの大きさの黒い物体を奥歯に入れて、穴をセメント状のものでふさいで、治療は終わった。上の空だったので説明は殆ど聞き取れなかったのだが、とりあえずは痛みを抑える応急処置的なものだったのだろう。悪夢の一日目は、拍子抜けするほど呆気なく幕を閉じた。

しかし、歯医者から無事に生還できたのだ。これは諒としなければならない。夜、祝杯を上げた。数日ぶりに、痛みを恐れることなく飲める。ところが、調子よくサッポロ黒ラベル500ミリリットル缶を一本開け、アサヒ極旨350ミリリットル缶に着手しようとしたあたりから、またも奥歯が疼きだした。薬に影響があるから9時半までは飲んではいけないと、高廣翁はこれまた何度も言っていた。てことは、9時半以降は大いに飲まれよ。そういう意味だとオレは解釈して飲み始めたのに、またイテーじゃねーかよ!やっぱり高廣翁はヤブだあ!と憤慨したが、生まれて初めて分かったことがある。ビールはやはりアルコールだったという確固たる事実だ。ビールは刺激物だった。オレはてっきり水だと思っていた。

一夜明けると、まさしく奇跡のように痛みはすっかり消えていた。歯痛のない朝がこれほどさわやかなものだったとは。小鳥もピーチク鳴いている。高廣翁は歯医者界には決して存在しない幻の名医かもしれない。平和な世界がこれほどまでに尊いものだとは。頭の中に、ジョン・レノンの名曲「イマジン」の旋律が響く。翌日、歯医者嫌いを克服しつつあったオレは、聞いて、聞いて、今からオレは歯医者に行っちゃうんだよ!と近所の歯医者嫌いの子供たちに思い切り自慢したい衝動を抑えながら、すっかりウキウキ気分で大きな坂道を颯爽と下って田村歯科に出向いた。ところが・・・・・

「すいません、今日、先生はいないんですけど」。笑顔を忘れた受付嬢が言う。「障害者の検診に出てまして」。ええっ、今日来いって言ったじゃないかよ、どういうことだよ!笑顔を忘れた受付嬢の次の言葉に驚いた。「大先生ならおられますが・・・」。オオセンセイ?高廣翁が大先生じゃなかったのか。息子のほうが大先生なのか。人の口に凶器を突っ込んでも罪に問われない治外法権の歯医者の世界にも、年功序列崩壊の波は押し寄せているのか。それとも、やはり高廣翁の上に大先生が、すなわち高廣翁の父親もまた歯医者として今もなおこの世に存在し、ヨレヨレの体で現れては覚束ない手つきでドリルを振り回し、

「でふぁ、ひりょーひまひょーね、ふがふが(では、治療しましょうね、ふがふが)」

「ふぁ~、へんへ~、ほほは ふひへふぁありまふぇん。ふぁふぁのふぁふぁれふ!(あっ!先生、そこは口ではありません、鼻の穴です!)」

などという、それこそ身の毛がよだつどころか、身の毛がすべて抜けてしまいそうな恐るべき展開が待ち受けているというのか。「どうします?」と、笑顔を忘れた受付嬢が恐るおそる問う。明らかに、その表情は不安に脅えている。何しろここは歯医者だ。無茶はできない。絶対にできない。「明日来ます」。明日は高廣翁がいることを入念に確認して、オレが退散したことは言うまでもない。

(続く)

・・・・・いや、もう続かない! 早くこの話にケリをつけて前に進まないと。歯医者と付き合うとこれだから困るのだ。さて、大先生は何者なのかという好奇心をぐっと抑えつつ、高廣翁による二回目の治療を受けるべく田村歯科に行く。「いやあ、昨日は済まなかったね」。人の半日の予定を台無しにしておきながら、その明るい口調には全然悪びれた様子がない。まあ、そのほうがいい。絶大な権力者である歯医者に恐縮されたら、かえって恐ろしい。

それでも、多少は申し訳ないという気持ちがあったのか、こちらが頼んだわけでもないのに、煙草で真っ黒になった歯の裏を少し綺麗にしてくれた。治療代に含まれているのかどうかは分からない。そして問題の奥歯の薬を入れ替えて、今日は別の歯にも取り掛かろうとドリルを振り回す。ううう、やはり痛い。あの、爪で黒板を引っかく音に劣らぬ恐怖の高音と共に繰り広げられる沁みるような痛さは、やはり耐え難い。早く終わっくれ。はい、うがいして。ガラガラペー。高廣翁は人の口の中をしげしげと見回して、また感嘆する。「この親知らずなんか痛かっただろう」「えっ?たいして痛みはなかったです」「こりゃ抜かないとダメだな」「いや、痛くないです」「痛いだろうに」

「だから、本人が痛くないって言ってんだから痛くはないんだよお!人の歯を勝手に抜くな~!」(心の声)

いや、本当なのです。昔、少し痛んだぐらいで、今は何ともないのです。それなのに、高廣翁はやる気満々である。衝撃的な言葉を続ける。「何とか、あと10年は持たせてやるからさ」。えっ、オレの歯の状態はそんなにひどいのか。10年後は早くも総入れ歯なのか。自分の名誉のためにも付け加えるが、虫歯のほとんどは子供時代に治療したもので、すっかりことごとく詰め物が取れてしまったのである。確かにお世辞にも綺麗とは言えない。それでも、ものを食べた後は必ず歯磨きをしてきた。常にマイ歯ブラシを持参したわけではないが、痛みの再発が怖かったから歯磨きを怠るようなことはなかった。何千人、何万人もの歯を見てきたはずの高廣翁がびっくりするような状態にもかかわらず、それほど痛まなかったのはきっとそのせいなのだろう。それでも、虫歯は深く静かに進行していたのか・・・・・人間は決して一人では生きられない。自分の体一つさえ思うに任せない。誰もが誰かの助けを必要とする。例えば、そう、歯医者。虫歯は自力で治せない。オレは残りの人生の命運を高廣翁に委ねる決心を固めた。わずか10年でもいい。お豆腐より固いものが食べられるようになるのなら・・・・・

そして一昨日。左の奥歯二本に詰め物をしてもらうべく田村歯科に行った。しかし、笑顔を忘れた受付嬢が言う。「すいません。今日も先生がいないんです」

「・・・・・・・」

これが、歯医者なのだ。

「オオセンセイは今日、目の検査に行かれまして」。やはり高廣翁が大先生だったのか!だとすると、二日目の「大先生はいますけど、どうしますか」という質問は何だったのか。その大先生に治療を受けているのだ、オレは。訳が分からなくなった。ここは歯医者だ。やはり道理や常識は通じない。「ちょっとカルテを見てみますね。若先生はおられますから」。もう、どうにでもしてくれ!

「大丈夫です。若先生が治療なさいます」。驚くべきことが起こった。あの笑顔を忘れた受付嬢が、そう言って微笑んだのだ。歯医者に一輪の花が咲いた。世界はやはり平和に向かっているのかもしれない。オレは若先生がいつも担当すると思しき中央の席に案内される。その診察台には目の前にモニターもあった。大先生のときには付かなかった衛生士も傍に控えて、大先生のときにはなかった唾の吸い取り機も使った。モニターには「スパイダーマン」のラストシーン。ちょっぴり歯医者に慣れたオレは、この画面に「マラソンマン」が映っていたら面白かったのにと思ったりした。

奥歯に金を二つ詰めた。約3500円。やけに安いような気もするが、まあいいか。そういえば最近、オレたちが当然のこととして露ほども疑わなかった信頼の土台を揺るがす事件や事故が相次いでいる。高校の必修科目未履修問題、ジェットコースターの脱線事故、偽装肉・・・。それでも、歯医者に行けば歯が治る。看板に偽りはなかった。奇跡のような、奇跡でもないような。とまれ、今夜は歯の心配をすることなく、大好きなししゃもの唐揚げが食べられそうだ。

次回の治療は金曜日だ。「今度は大先生もおられますので」。笑顔を忘れていた受付嬢が、はにかんだ表情で言った。無論、その言葉を100パーセント信じるオレではない。今度は、行く前に必ず確認の電話を入れるつもりだ。しかし今夜は、田村歯科に敬意を表して祝杯をあげよう。酒のつまみには、ししゃもの唐揚げとともにレンガでも齧ってみようと思っている。

(完)