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なべて余はこともなし

昨夜、私は4キロ半のマシュマロを食べる夢を見たのだが、目を覚ましたら、枕がなかった。(トミー・クーパー)

77歳、乙女の恋

日記

手にはテレビのリモコンが握られている。
眼鏡はかけたままだ。
横たわった体は、反り返っている。

すわ、死んだのか!?

「むにゃむにゃ、おやお前、いたのかい?2時間ドラマを見てたんだけど、寝ちまったようだよ」

きわめて不自然な居眠りの体勢を目撃するたびに、こちらは心臓が止まりそうになる。

77歳。
母がまだ生きている。

狭心症で2度、深夜の救急車の世話になった。
今も血圧は200以上が当たり前だ。
骨粗鬆症に加え、足腰も悪くコルセットをしなければ歩けない。

だから1日中、寝転がってテレビばかり見ている。
2時間サスペンスドラマが好きで、欠かさず見ている。

だが、そこで繰り広げられる殺人事件は必ず迷宮入りになる。
ドラマの大団円にたどり着くことなく、本人が眠り呆けてしまうからだ。
やっぱり蟹江敬三が真犯人だったのかしらって、そんなこと俺が知るか。

 

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だが、そんな母が、テレビの前からむくりと起き上がる時がある。
緊張の一瞬、こちらも息を飲む。
さては、奴が近くにやって来たようだ。

その名も氷川きよし
母は、氷川きよしの追っかけをしている。

寝室には、きよしの巨大ポスターが何枚も貼ってある。
枕元に置いたラジカセで、夜毎「きよしのズンドコ節」を子守唄に寝ている。
いつの間にか、ファンクラブにも入っていた。

そして、東京及び近県でのコンサートの切符が手に入ると、墓場から蘇るゾンビのように目覚めるのだ。

人の顔を見れば、ここが痛いの、あそこが痛いのと愚痴ばかりこぼす。
だから、掃除、洗濯、買物と、どれだけ俺が手伝っていることか。
それなのに、コンサートの日にはなぜかそんな体の痛みもすっかり消えて、歩幅2.4センチぐらいの、どこから見てもロボットみたいな足取りで、いそいそと出かけていく。

騙されているのかもしれない。
本当はぴんぴんしているのに、体の弱った老人のふりをして家族を酷使するという、オレオレ詐欺ならぬ「ヨレヨレ詐欺」なのではないかと・・・。

だが、毎日10種類近い薬を飲んでいる。
歩幅2.4センチも紛うことなき事実だ。
これが恋の情熱というものなのだろう。
身に覚えがないわけではない。
愛しいあの人に会うためなら、たとえ雨が降ろうが、槍が降ろうが、2.4センチだろうが、我知らず不思議な力が湧いてくる。

周囲は陰で笑っている。
でも、寝たきりになってもおかしくない年齢と体調だ。
それが、この恋のおかげで防げているのであれば、氷川きよし様様なのかもしれない。
彼に足を向けて寝ることはできない。
ホモ疑惑なんてのもあるらしいが、母にはそんなこと、口が裂けても言えない。

そう、老いらくの恋とも呼ぶまい。
目ん玉にハートマークを浮かべた一途な様子を見ていると、むしろ、いにしえの歌の切ない詩が胸によみがえる。

命短し恋せよ乙女、紅き唇あせぬ間に・・・♪

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