なべて余はこともなし

昨夜、私は4キロ半のマシュマロを食べる夢を見たのだが、目を覚ましたら、枕がなかった。(トミー・クーパー)

拳さんの拳

九月の中旬頃までセミは鳴いていたはずだ。夕されば、秋の虫が合唱に加わっていた。気がついた時にはセミの声はなかった。涼しい季節の訪れに息をついているうちに、その存在を忘れてしまう。人間とは迂闊なものだ。

数日前、テレビのCMを見て、随分痩せたなと心の片隅に留めたはずだった。同じ頃、ホームページも覗いていた。「鬼畜」「松本清張」等の検索語で私の映画のブログにやって来る人が少なからずいたので、その元を辿っているうちに行き当たったのだろう。そんなことがあった後の悲報だった。思わず、声が漏れた。

昨夜、テレビドラマ「風のガーデン」の第一話を見た。脚本は倉本聰。懐かしい顔が出ていた。伊藤蘭ちゃんの演技なんて「ヒポクラテスたち」以来だろうか。木内みどりの姿は「天才・たけしの元気が出るテレビ」あたりから見ていないのではなかろうか。記憶をまさぐるも何も浮かんでこない。ドラマは、末期ガンで余命の少ない医師(中井貴一)の話らしい。そして、拳さん自身も肝臓ガンと戦いながら、一風変わった老医師を演じていた・・・ことを、今知りながら見る。

ガンを患いながら、ガンを扱ったドラマに出る。役者とは、何と因果な商売であることか。いや、拳さんのことだから、役者冥利に尽きると思ったのか。何しろ、役に成り切ることを身上とする俳優だった。本人いわく、演技とは一種の「憑依」だ。

今村昌平監督「復讐するは我にあり」(1979年)を思い出す。心底から打ちのめされた映画だった。拳さんは実在の連続殺人犯を憑依させた。人間が悪魔になった。鳥肌が立つほどの迫力だった。共演の三國連太郎倍賞美津子小川真由美清川虹子もみな凄かった。映画というものにのめり込む一作になった。

個性が第一の商売だから違う方がいいはずなのに、何故か「ケン」という名の俳優は多い。高倉健上原謙、三津田健、宇津井健山内賢松平健田中健渡辺謙石黒賢金子賢(次点:志村けん)。もっといるが、ざっと挙げてもこんなにいる。

でも、拳さんの芸名の読みは本来「コブシ」だったという。その由来はウィキペディアに譲って少し付言すれば、人前では思わず隠してしまうほど大きな手がコンプレックスだったそうだ。手の大きさが恥ずかしいとは何と内気な。でも、そんなに大きかったか。拳さんの映画は、増村保造監督「セックスチェック・第二の性」「積木の部屋」(1968年)あたりから近年の作品を除いてかなり見ているのに、まったく記憶にない。やはり、人間とは迂闊なものだ。「風のガーデン」ではその点にも注目した。果たして、骨太で肉の厚い、それは立派な手だった。

その大きな手で役柄の魂をガシッと掴み、その大きな手で朴訥にして飄逸な書も嗜んだ。肩肘を張らない自然体という雰囲気もあった。軽妙でユーモラスな人物を演じても、えも言われぬ味があった。

「男の中の男」ならぬ「ケンさんの中のケンさん」は健さん(宇津井?田中?とか野暮なことは聞かないでよ)か、拳さんだったか。悩むところではあるが、今は拳さんだと言おう。本人は一笑に付すだろう。でも、きっと、あの、独特の、相好をくしゃっと崩す人懐こい笑顔を見せてくれるはずだ。

まさに、一代の名優。

緒形拳

享年71・・・また、声が漏れる。安らかに。

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