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なべて余はこともなし

昨夜、私は4キロ半のマシュマロを食べる夢を見たのだが、目を覚ましたら、枕がなかった。(トミー・クーパー)

【映画評】男と女にずばぬけて明るいひまわりが咲いている

もう嫌味なくらい気障です。でも、シビレます。メロメロになります。その喜びも苦しさもひっくるめて、ワタシも恋をしたい!と思うこと、請け合いです。ダダダ・・・ダバダバダ♪~です。フランシス・レイのボサノバ調スキャットを耳にしたことのない人はいないでしょう。タイトルもそのものズバリ、「男と女」!

Un Homme et Une Femme (1966年・仏)

監督・撮影:クロード・ルルーシュ
出演:アヌーク・エーメ、ジャン・ルイ・トランティニャン、ピエール・バルー

恋愛映画としては月並みな筋立てです。でも、人物設定がお洒落です。男はレーサー(トランティニャン)。女は映画の記録係(エーメ)。そんな二人が出会います。ただ、二人はお互いに過去の暗い影を引きずっています。男の妻は危険が付きまとう夫の仕事に耐えられずに自殺し、スタントマンだった女の夫は撮影中の事故で亡くなっているのです。

モンテカルロ・ラリー。夜を徹してひた走った男を、女からの電報が待っていました。「オメデトウ。アナタヲアイシテイマス」。やられました。女からのストレートな告白です。男は二十四時間耐久レースを終えたその足で、車を走らせます、その思いに応えなくっちゃ男がすたります。会ったら何て言おう・・・男は考えます。ハンドルを握りながらひげも剃ります。身だしなみも欠かせません。フロントガラスを叩く雨。ワイパーの動きが男の気持ちを急かします。

朝、ついに男は到着します。海岸に女とその子供はいました。走り寄って抱き合う二人。やっと会えた至福の瞬間!二人の姿を捉えたカメラが回ります。いつもより余計に回ります。我らが日本代表の染之助・染太郎もびっくりです。

そうして結ばれるはずの一夜でした。ところが不首尾に終わります。女はやっぱり過去の呪縛から逃れることができないのです。苦痛に歪んだ女の表情に、亡き夫と幸福に睦み合った光景が重なります。

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この映画の魅力はいつに語り口にあります。モノクロとセピアカラーの交錯、望遠レンズによるソフトフォーカス、無造作を装ったカメラワーク、そして、ダバダバダ♪~それらが渾然一体に溶け合って、見るものをめくるめく愛と苦しみの陶酔へといざなうのです。

聞けば、監督のクロード・ルルーシュはミュージック・ビデオの先駆けともいうべきスコピトーンの名手だったそうです。なるほど合点が行きます。「リアリティほど退屈なものはない。現実は常に修飾しなければならないものなのだ」とも言い切っています。この現実という語を「恋愛」に置き換えてもいいでしょう。画面から監督のしたり顔が透けて見えるようです。

物語はいよいよ佳境に入ります。ネタバレです。でも書かずにはいられません!

恋の成就を見ることなく別れた二人でした。でも、二人はそれぞれ同時に一つの場面を思い出します。それは、数時間前のレストランでのこと。二人が料理の注文を終えても、ボーイが席を離れようとしません。「もっと注文しないと悪いみたい」と女。「喜ばそうか」と男、そしてボーイに向かってこう言うのです。「君、部屋を一つ取ってくれないか!」

きゃ~!もちろん、ここでダバダバダ♪~です。チビリます。失神します。僕が映画館で見たときは、三人の女性客が救急車で運ばれていきました。「パルプ・フィクション」もびっくりの時間の倒置法が、終幕のハッピー・エンドをそれはそれは鮮やかに決めるのです。

フランス人は恋、恋、恋、明けても暮れても、恋です。それをこれほど見事な映画の「芸」で語られてはたまったものではありません。篇中にはこんな台詞もあります。「みんな、くだらない事があると”映画みたいだ”って言う。映画を馬鹿にしてるのかな」。いえいえ、馬鹿になんぞいたしません。破格の低予算と短時間でこれほどの愛の名作を撮り上げた若き日のルルーシュ。脱帽です。嗚呼、苦しくてもいい。僕も、ミヲコガスヨウナコイガシタイ!

・・・とは書いたものの、そこはまた、見渡すかぎり一面にひまわりが咲くような風景でもあります。そして、その下に幾多もの非業の死が眠っているという逆説。そう、光は影であり、音は沈黙であり・・・イタリア・ネオレアリスモの流れを汲む監督の映画なので文章も転調しましょう。

I Girasoli (1970年・伊)

監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
出演: ソフィア・ローレンマルチェロ・マストロヤンニ、リュドミラ・サベリーエワ

映画「ひまわり」はこんな話だ。

戦地から帰ってこない夫の消息を求めて、イタリア女がロシアの地を歩く。ひたすら歩いて、夫を見つける。生きていた。ただ、命の恩人である村娘と所帯を持って。

あまりにも残酷な現実を目の当たりにして、ソフィア・ローレンは思わず列車に飛び乗ってしまう。その泣き崩れる「姿」の悲痛なまでの美しさ。対するマルチェロ・マストロヤンニの、もはや悲しみを超えた、ある種の無常観を湛えた「表情」。

何も語らぬまま深く沈んだ男の姿を見兼ねて、若い妻は無言のうちに夫にイタリア行きを勧める。ようやく男はある夜、重い腰を上げる。再会の前に、女は女としてそっと思い出のイヤリングを付けた。嵐で停電したアパートで、男は男として静かにいきさつを語り出す。

「あのとき、僕は死んだ。別人になってしまった。死を間近にすると、人は感情さえ変わってしまうのかもしれない」

それでも、男はもう一度やり直そうと口にした、そのとき、赤ん坊の泣き声が男の耳を穿った。そして、電気が灯った。「もう、昔とは違うわ。あなたには別の女、私には別の男・・・それだけのことよ」。二人は抱擁する。気がついただろうか。これは、抱擁という仕草が決まって別れを紡ぎ出すという物語だということを。

映画はミラノ駅の別離の場面で終わる。この後に、ロシアの妻が登場する場面はない。簡潔であること。ただそれだけが豊かな情感を生む。

ひまわりは戦争を知らない。憎しみ合う人間を知らずに、大地にただ咲き誇る。

やっぱり泣いてしまった。あの鮮烈なひまわりのイメージが戦争を、戦争がもたらす悲劇を語るということに。

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君こそ淋しがらんかひまわりのずばぬけて明るいあのさびしさに(佐々木幸綱)

ヘンリー・マンシーニの哀切な旋律が、いつまでも、いつまでも耳朶に響く。