なべて余はこともなし

昨夜、私は4キロ半のマシュマロを食べる夢を見たのだが、目を覚ましたら、枕がなかった。(トミー・クーパー)

かたつむりの手紙

どこかのコラムかブログで、こんな記事を読んだことがある。

電車内で、50代とおぼしき男女の声が聞こえてきた。「メールは便利よ」。電子メールの話だった。思わず、耳をそばだてる。

「メールができないなんて、時代遅れよ」
「電話で済ませばいいじゃないか」
「それじゃ携帯を持つ意味がない」
「そんなに文章がいいのなら、手紙を速達で送ってあげるよ!」

笑った。手紙のことを英語で「snail mail」と言ったりする。すなわち、カタツムリの郵便。Eメールと比べると、人手による配達はカタツムリのように遅いからだ。速達ならどうだろう。ムカデぐらいの速さは出るかもしれないが、メールの瞬時にかなうはずもない。

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どんな風の吹き回しなのか、最近、手紙をくれるようになった友達がいる。先日も、やや小さ目とはいえ便箋10枚以上も書いて寄こした。電話やメールはもちろんのこと、その他最先端のコミュニケーション・ツールを使っても連絡の取れる間柄である。字を書きたいという心境の変化でもあったのか。それとも1000円もした高価な(?)ボールペンを買ったと言うから、試し書きがしたかったのか。

内容は近況報告というより、何の変哲もない身辺雑記だった。天気の話、まわりの自然の話、マスコミを賑わす悲惨な事件の話、家族の話。取り留めがない。字もお世辞にも上手とは言えない。ところどころに誤字を塗りつぶした跡もあった。でも、これがいいのだ。読んでいて、ほのぼのと温かい気持ちになる。この人にしか書けない字を目で追っていくうちに、相手の喋っている声さえ聞こえてくるような気がした。

最後は、森進一と昌子は好きじゃない、歌はいいけど顔が嫌いだと何の脈絡もなく締めくくられていた。思わず頬が緩んだのは、へんてこりんな顔文字が一つあったことだ。せっかくの自筆の手紙なのに、小さな顔の絵がわざわざ書き込んであった。やはりメール文化に毒されているのか。語るに落ちるとはこのことか。

子供の頃、両親の字に感心した覚えがある。二人とも学問はまったくなかったが、字はうまかった。自分もああいう風に書けるようになりたいと、書き方の宿題に真剣に取り組んだ記憶もある。ところが、こちらが大人になってから見た親の字は、決して上手なものではなかった。悪筆ではないが、達筆でもない。子供が見た、普通の大人の字でしかなかった。ちょっと不思議な感じがした。

書をやってみようかと思い立ったこともある。テキストを買っただけで終わった。でも、別にうまくなくてもいいんだ。年賀状に一行添えるだけではなく、たまには手紙を書いてみようか。Eメールにおいても、文は人なりだろうか。友達が自筆で送ってくれた手紙には、人柄が表れていた。陳腐な言い方だろうが、その人だけが持つぬくもりがはっきりと感じられた。

久しぶりに、手書きのラブレターでも書いてみようか。想像以上の効果を上げるかもしれない。但し、問題が一つある。そいつを出す相手がいない・・・。

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